二話 学問に生きた市井の人

 

 「蒲生君平先生の遺徳顕彰しぇなならんな。」

 「伊藤さん、どうした急に。君平先生か。確かに松陰先生は、いつもお話し下さったな。新政府の土台も、『職官志』の理想「延喜の御代」に倣うものじゃし。」

 「松陰先生は、獄にいらっしゃった折、『職官志』を読破され、松下村塾で『不恤緯』とともに版刻、教本とされた。桂さんも、高杉さんも競う様に読んでらっしゃった。池田屋騒動で藩邸に急を告げ、とって返して最期を遂げた吉田稔麿さんへは、松陰先生が安政四年(一八五七)に君平先生の諱「秀實」を与えられた。羨ましかったなぁ。」

 「君平先生は、二度目の西遊の後の文化五年(一八〇八)ついに『山陵志』を世に出され、文化十年(一八一三)には「刑志」を脱稿され、そのまま体調を崩し赤痢で亡くなっちょったな。松陰先生は「刑志」を探されたが、ついに見つかるこたぁなかった。蒲生君平先生の「神祇志」『山陵志』「姓族志」『職官志』「服章志」「禮儀志」「民志」「刑志」「兵志」の九編が完成しちょったらと思うと残念じゃ。「九志」の序文では、国家の紀綱を立て、事理を貫く法則をあきらかにし、人倫の道や名分を正す教えを生じさせ、政治・刑罰の指針、風俗淳化に効果があるとされちょる。まさに新政府構想の土台じゃのぉ。」

 「新政府が出来て二年目ではあるが、勅旌の石碑を建て、永世に伝える顕彰ではどうかのぉ。」

 「そうじゃのぉ、碑文は「忠節蒲生君平里」として、人々の目に触れるよう宇都宮の入口に据えたらどうじゃ。」

 「宇都宮の藩知事は戸田忠友だったな。早速に伝えよう。山陵修補の立役者、参与の戸田忠至さんは、従四位上に叙そうかのぉ。」

 

『下野教育』758 平成三十年五月号 所載 

    「前方後円墳の名付け親蒲生君平」篠原祐一 栃木県連合教育会 より